
こんにちは。具です。
私は「養護教諭(保健室の先生)」という仕事をしているのですが、毎日保健室で生徒と関わる中で、ずっと気になっていることがあって…ちょっと聞いていただけますか??🙄
私たち養護教諭は、保健室に体調不良の生徒がくると、体温を測ったり、症状を聞いたりしながら、観察を通して本人の状態をアセスメントします。
体調みて、今日はどうしたいかな?
少なくとも私は最後こう聞くのですが…保健室で休むのか、授業へ戻るのか、早退して家で休むのか。選択肢は大体これくらい(生徒の実態によっては、こちらから選択肢を伝えて選んでもらうこともあります)。どんな形であれ、私はできるだけ、その子自身に決めてもらうようにしているのですがーー
親は、帰ってきていいって言ってました
……なるほど。
もちろん、おうちの人が「無理しないでね」と言ってくれるのはありがたいこと。
けれど私は、この答え方がどーーーしても少し、引っかかる。自分では核心を言わないって、裏を返せば、決定の責任を相手に置くってことよね??🤔
……いいのか?それで
……いいのか?このままで。
少なくとも私は、相手に決められるばかりでいた人生の弊害というのを実体験で知っているから、このままにしたくないという思いがあります。
ということで今回は、保健室で大事にしている小さな自己決定の積み重ねについて考えてみようと思います。
- 🧩 判断を委ねる子どもたち
- 🪞自分の“感じ”を基準にする練習
- 🏫 保健室でのエピソードーーなにをしても怒られる
- ⏳パートナーとのエピソードーーファミレス事変
- 🌱 自己決定と自己理解
- 🌈 おわりに:自分の体のことは、自分で決められる人に
🧩 判断を委ねる子どもたち
このやりとり、めずらしいことではありません。
養護教諭になって二桁ーーこうした場面には、教員になった当初から今日まで、(比喩表現ではなく、文字通り)毎日出会っています。
・親が言ってたから
・先生が言ったから
・友だちが行けって言ったから
中には、「いやー、ちょっと無理っぽいんですよね」と、結論を相手(先生)に言わせようとするパターンも(これも比喩表現ではなく文字通り毎日出会う)。
そんな風に、自分の体調や気持ちの判断を、他者に委ねてしまう子は正直多い印象です。
- 「お腹が痛い」と言うけれど、どのくらい痛いのか、自分でもよくわからない。
- 頻回に「頭が痛い」中で、授業に出られないほど痛いのか、そこまでじゃないのかを、先生に聞かれてからでないとわからない。
そんな子どもたちの姿を見るたびに、「もしかしたら、自分の感覚を言葉にしたり、判断材料として使ったりする経験が十分に積めていないのかもしれない」と思っている私。“経験がないなら、積めばいいじゃない”精神のもと、保健室を通して、自分で決める練習を実践する毎日です。
🪞自分の“感じ”を基準にする練習
子どもたちを見ていると、なんだかいつも、どこか“正解”を探しているような気がしてなりません。いや、よく見たら大人もそうか?
自分が教員なりたてのときは、自分がわかっていないことも自覚していたので「どうしたらいいですか!?」って、わからないを前面に出して迷惑をかけたものだけど、年々入ってくる年下の先生を見ていると、聞かない(聞けないのかも)し、わからないとも言わない(言えないのかも)し…なんか、できる風に見せるというか…失敗したくないのかなぁ。「教えて」って言えるの、なりたての特権なのに。
まぁ、世の中を振り返ってみれば、テストや成績・マニュアル・ルール等々、正解や評価が、生活のどこかにはらんでいますから、仕方ないのかもしれない。知らんけど。
もちろん、こういうものはある程度は必要なんだろうけど、そればかりに意識を向けてしまうと、「自分はどう感じているのか」に視点を置いて考えるのが難しくなっちゃうんじゃないかなぁ。
- 今、休みたいかどうか
- この痛みなら頑張れそうか
- どのくらい不安なのか
人の体って、とても正直で、頑張りすぎたら熱を出すし、我慢しすぎたら頭痛にもなるーー「休みたい」と思うこと自体が、心や体が出しているちゃんとしたサインなんですよね。私はこういう体からのサインを大事にしたいし、できれば子どもたちにも大事にしてもらいたいなと思っています。
なぜなら、サインを大事にすることは、自分を大事にすることであり、相手を大事にすることでもあるから。
だからというわけではないけれど、私は問診する中で、必ず最後に「あなたはどうしたい?」と聞くようにしています(実際の聞き方はもう少し違いますが)。
それは決して、「正解」を求めて質問しているのではなく、「自分の体の声を聞く練習」をしてほしいから。もちろん、私のこの考えは、生徒たちにも日頃から伝えるようにしています。
🏫 保健室でのエピソードーーなにをしても怒られる
(このエピソードは、実話にフィクションを織り交ぜた内容になっています)
ーーある日、生徒が保健室へやってきました。朝から頭痛がしていたそうで、少し休んで落ち着いたころ、いつものように聞きました。
今日はどうしたい?
するとその子はしばらく考えて、
…帰りたいけど、帰ったら絶対、親に怒られる
下を向いたまま、眉をしかめてそうこぼします。保健室でときどき見る光景です。
…今日は朝から頭痛くて、いつもよりちょっと痛かったから休みたいって言ったけど、テストあるんだから行けって
そっか。でも、テストは受けたんだよね?
…受けた
この子は自分の体調を客観的に判断して、この後どうしたいかを言語化できていたこともあり、私も様子を見る限りは早退の決断は妥当だと判断しました。
十分よく頑張ったじゃん。こっちからも、“テスト頑張りましたよ”って伝えるし、もし話が十分に伝わらなさそうになったら、“学校が判断したので”、って言ってもらうから、きっと大丈夫だよ
そんな風に伝えてみると、その子は安心したように目線をあげて承諾してくれました。学年の先生にも事情と本人の様子を伝えると、理解を示してくれたのでありがたかったです。
連絡がつくまでのあいだ保健室へ残された生徒は、ぽそっと言いました。
…怒られるかなぁ
そんなに怒られるの?
怒るっていうか…なんか不機嫌になってくる。頭痛いから休みたいって言っても、テスト受けてからにしなさいとか、早く寝ないからだとか。だからって早く寝ようとすれば、テスト前なんだから勉強しなさいとか。なにしても怒られる
そっかぁ。いっぱい頑張ったんだね
そういう生徒の話を聞くと、少なからず胸がぎゅっとします。
この子に限らず、自分で決められない子たちの中には、もしかしたら、これまでの人生で「こうしなさい」と言われることが多くて「どうしたの?」とか「どうしたいの?」と聞かれることは少なかったのかもしれません。
それが悪いと言いたいわけではないけれど、決められないタイプの生徒と出会うたびに、“自分の意思で選ぶ”機会は多くなかったんじゃないかな、と思うのです。
⏳パートナーとのエピソードーーファミレス事変
「自分で決める」ってそんなに大事?と思う人もいるかもしれないけど、自己決定って、言い換えれば「自分の感覚を信じる力」だと思います、私は。
- 今日はいつもとちがう
- 前もこんな経験があった
- あのときより今日はマシ
過去の経験と現在を結びつけるーー大人にとっては当たり前すぎて、そんなことは、教えなくてもいつか身に付くと思うかもしれません。でもこれは、子どもの頃から繰り返し積み重ねていかないと身につかないスキルだと私は思っています。
少し余談となりますが、私のパートナーはかつて、自分のことを自分で決めることが苦手な人でした。
一緒にファミレスへ行ったときも、「なにがいいかな?」と必ず私に聞いてきて、当時の私は、それにとても違和感がありました。
ーーえ?自分の食べたいもの食べなよ
え……うーん、…パスタ、でいいかな?
知らんよ笑 君が食べたいもんなんだから。パスタ、食べたいの?食べたくないの?
食べ、たい…です
じゃあそれでいいじゃん。他にはいらない?
他は、大丈夫
ま、食べたくなったらまた注文すればいいさ。私ハンバーグにしよ
何度かこんなやりとりがあったので、後にパートナーへ聞いてみたら、「昔から“これがいい”って言っても、“こっちにしなよ”って言われるから、自分で決めるのが苦手」と話をしてくれました。パートナーが他人の顔色を気にせずメニューを決められるようになるのに、1年は掛かったんじゃないかな?
「自分で判断して決める」を繰り返すうちに、自分の判断を少しずつ信じられるようになっていくんだと思うし、それが自分を信じる力につながるのだと、私は思います。
仮に自分の判断を「間違えたな」と思っても、それを発見できたのだからOK👌失敗ではなく、発見!それでよし👍
時間がかかってもいい。自分で判断して決める練習を通して、「あなたが感じたことを大事にしていいんだ」って、伝わったらいいな。
🌱 自己決定と自己理解
さっきから、「自分で決定すること(自己決定)が大事」と言っていますが、私はそれと同じくらい「自己理解」も大切だと思っています。
自己決定は、「どうするか」を決める力。
自己理解は、「なぜそうしたいのか」を知る力。
この2つは似ているようで、実はまったく違うもの。
「今日は早退したい」と思ったときーーその背景には、単に体がしんどいからなのか、心が疲れているからなのか、あるいは嫌な授業があって受けたくない気持ちがあるのか。
そんな風に、自分の中にある“理由”を見つめるのが、自己理解。
「受けたくないから帰る」のように、自己理解のないまま物事を決めるのは、どこか惰性的というか、機械的というか…
- 「なぜ早退したいのか」を自分に問いかけて
- 「授業受けたくないな」と思っている自分に気づき
- 「なんで受けたくないのかな」と自問し
- 「今日提出のプリント忘れたからだ」と気づく
その気づきをもって、そこに誰かの顔色は入れずに、結論を導く。この工程の繰り返しが、自分の考えを軸に生きるための土台になると思います。自己理解あってこその自己決定。……と信じたい。
🌈 おわりに:自分の体のことは、自分で決められる人に
先生、頭痛いー
頭痛い?どうしたんだろうね??
多分、宿題やってて遅くなったから寝不足のせいだと思う。熱ないし
じゃあ、今日は早く寝ないとね。ーーその様子だと、学校はいれそうかな
先生、5分だけ休ませてくれませんか?
私のやり方が、果たして“正解”だったのかはわかりません。でも、関わりを重ねた生徒たちが少しずつ、自分の考えを伝えてくれるようになる姿を見て、確かな手応えを感じています。
「自分の体のことは、自分で決める」
誰かに決めてもらったり、察してもらうことは楽なことかもしれませんが、子どもはいつか大人になるし、大人になれば、子どもの頃には想像もできなかったような決断を迫られるときがくるかもしれない。
自分の“内側の声”に気づくことは、人生を支える大きな力になると信じて、今日も私は、保健室を通して、「どう感じてる?」を一緒に探ります。
「どうしたい?」とか「どう感じてる?」と聞かれるのが苦手な人もいると思いますが、でも、その一言に込めているのは、“あなたの体は、あなたのものだよ”というメッセージであることは間違いないです。
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ちなみにうちの猫さまは、体調を崩したときはきちんと「今日は寝る」と自分で決め、丸一日爆睡しています。……もしかしたら、いちばん自己決定できてるのは猫さまなのかもしれません。