
こんにちは。具です。
進路を意識する時期となってきました。校内では進路面談や進路会議がさかんに行われ、3年生のフロアは少しだけ、空気が違います。
この時期になると、必ずと言っていいほど聞かれる質問があります。
先生はどうして「保健室の先生」になったんですか?
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これまで、同じ質問をもらうたび、同じ答えを話していた私ですが、最近ふと、立ち止まって考えることがあります。それは、
(ーー私って、なんで養護教諭を“続けて”いるんだろう)
若手から中堅へと立場が変わり、これからの身の振り方を想像するようになりました。
大人の都合や仕組みに振り回される現実に、正直、心が折れそうになることもあります。「この仕事を続けるかどうか」を、本気で考えるようになったのは、少し前の自分からは想像もできなかったことでした。
今回は、そんな節目に立った今だからこそ考えた「養護教諭という仕事を、なぜ続けているのか」について、自分なりに言葉にしてみようと思います。
※考え始めてから書き終えるまで、結局数か月かかりました💦整理しきれていない部分もありますが、思考の記録として読んでもらえたらうれしいです。
🌱 「なにが」楽しいの?ーー生徒の質問から考える“なにか”
思い返せば、「養護教諭になりたい」と思った理由は、ずいぶん昔のことです。
当時の私は、あまり良い思い出のなかった子ども時代を、「教員」という立場を通して取り戻したかったのかもしれません。
でも今、生徒に「先生、仕事楽しい?」と聞かれたら、率直に「楽しいよ!」「この仕事好きだよ!」と言える自分がいます。
なにが楽しいの?
先日、私の回答に対して、生徒からめずらしく深掘りをされました。なにが楽しいのかーー私はこう答えました。
……みんなの話を聞くのとか、一緒にこうやって話す時間、かなぁ?
あー、わかる。“っぽい”よね。りゅう先生っぽい
「なにが楽しいの?」ーーこの質問は、生徒にとっては文字通りの質問でしかないのでしょうが、このときの私にとっては、「なぜこの仕事を続けているの?」という問いにぶつかるきっかけとなりました。
なりたかった理由とは少し違う。でも確かに、今の私をこの仕事につなぎとめている“なにか”がある。それを、ちゃんと言葉にしてみたいと思いました。
💭養護教諭を続けている“理由”
① 生徒の変容に立ち会える瞬間
この仕事をしていてなにが楽しいって、生徒と話している時間(とき)が、いちばん好きです。理由とかの前に、とりあえず、まず「楽しい」。それに尽きます。
- 保健室での何気ない雑談で笑い合う瞬間。
- 「先生ってさ」と、生徒の関心がこちらに向いた瞬間。
- 「先生が好き」「先生みたいになりたい」と言われた瞬間。
関係性が少しずつ積み重なってきたことを感じられる、あの感覚が好きなんだと思います。
保健室には、「なんとなく教室に戻れない」とか「教室に行きたくない」と固くなった生徒が来ることもあります。理由がわかっている場合もあれば、理由がはっきりしないまま、不安や違和感だけを抱えている場合もある。その振り幅は生徒によって違います。私は生徒の横に座って、声をかけます。
ーーいまの話を聞いてると、もしかして、こういうことなのかな?
ーーこんなふうに感じてるって聞こえるんだけど、あなたはどう?
するとしばらくして、生徒の表情が少し変わり、こんな言葉が出てくることがあります。
ーー……もしかして、これが嫌だったのかもしれない。
その、生徒が“自分の答え”に触れた気配を感じるとき、胸の奥が少しザワッとして、じんわりと熱くなるのを感じます。私はきっと、この“変化の兆し”に立ち会えることに、生きる喜びを感じているのだと思います。
② 「大人」に対する違和感と怒り
仕事をしていて、ずっと引っかかっていることがあります。それは、「自分のことを自分で決められない」子が多いことです。
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授業に戻るのか、休むのか、早退するのかーー本来なら自分で考えていいはずのことを、誰かに丸投げしてしまう。
そして、その背景には子どもに考えさせず、大人が先回りして判断してしまう構造があるように思えてなりません。
ーーあなたはどうしたい?」
ーー今この判断をしたら、このあと、どうなると思う?
- こうした問いを投げる前に、答えを与えてしまう大人。
- 考えることを手放し、責任を取らず、判断を他人に預け続ける大人。
私は、そういう“大人”に、ずっと怒っているんだと思います。「こんなの、教育でもなんでもない」って。……自分も大人なのにね。勝手な話です。でも、結構本気で、日々思っているんだから、しかたない。
だからこそ、自分で考え、自分で選び、その結果を引き受ける力を子どもたちと一緒に育てたいのだと思います。
③「ふつう」から外れて生きてきた経験
私は、同性パートナーと暮らしています。結婚式をして、家も買って、ときにケンカをしてーーどこを切り取っても「家族」にみえるような生活をしていても、日本ではその関係が制度的に守られているわけではありません。
これまで、心ない言葉を浴びることもありました。自分の存在がおびやかされる経験もしたし、悪意のない善意で傷ついたことも、数え出したらキリがありません。
それでも、いつかは「私は同性のパートナーと暮らしているよ」って言えるようになりたいと思っています。それは、単に自己主張のためではありません。
ーーセクシュアリティに悩んでいる生徒。
ーー自分の気持ちを言葉にできないまま、息をひそめて生きている生徒。
そういう子にとって、「同じように生きている大人が、ここにいる」という事実そのものが、救いになることもあるんじゃないかと思うのです。
そしてこれは、私にしかできないことなんじゃないかな、とも。
なんて、こうやって書いてみると、ちょっとおこがましい気もしますね😅
でも、セクシュアルマイノリティの当事者が、先生という仕事をして生活している。
こんなに子どもたちの身近にいる職業(しごと)に就いて生活している当事者って、
そうそういない気がするけど!?(私が知らないだけ??)
この国の“ふつう”から、ずっと外れて生きてきた私だからこそ、「ふつう」を疑い、違いを尊重する大人でありたい。そして子どもたちにも、そうあってほしいと願っています。
💡結論!私が養護教諭を続ける理由
私が養護教諭を続けている理由は、教育を通して、子どもたちが“ふつう”や“正解”に縛られず、自分の人生を自分の言葉で選び取れる社会を、次の世代に手渡したいからだと思います。
養護教諭は、成績をつけたり、評価をしたりする立場ではありません。
だからこそ、「どう生きるべきか」ではなく、「あなたは、どう生きたいのか」を、評価を気にせず、等身大で話すことができる立ち位置にできると思っています。
保健室には、答えが整理されないままの気持ちや、うまく言葉にならない違和感を抱えた生徒がやってきます。私は、その横に座って、正解ではなく、考えるための視点や問いを、そっと手渡したい。
ーーこう考えることもできるかもしれないね。
ーーそれって、誰の価値観だと思う?
そんなやりとりの中で、生徒が少しずつ“自分の軸”に触れていく瞬間に立ち会えること。それが、私にとっての教育であり、養護教諭としての仕事なのだと思います。
私は、もう長いこと、社会の“ふつう”から外れて生きてきました。だからこそ、誰かの用意した正解に押し込められる苦しさも、そこからこぼれ落ちてしまう不安も、よく知っているつもりです。
いつかは、私自身がマイノリティとして生きてきた経験を堂々と語り、生徒のロールモデルになれるような大人になることができたら…未だ勇気が出ず、実現できていませんが、それが、今の私が養護教諭という仕事を続けている理由であり、絶対に成し遂げたい私の生きる目標の一つです。
🌈おわりに:これからも養護教諭という仕事を続けるか
保健室というのは不思議な場所です。自分が子どもの頃は好きじゃなかったけど、こうして身を置いてみると、学校という場所が少し違って見えることもあります。
- 第三者として、近すぎず遠すぎない距離。
- 価値観や人生の話が、自然にできる場所。
- 理由があってもなくても、行きたいと思ったら、ふらっと来られる場所。
その条件を満たしているのが、私にとっては保健室でした。
これからも続けられるのかーー正直わかりません。だって現実は、生徒とゆっくり話せるばかりじゃないし、大人のしがらみはいつの時代もずっとそこに存在します。
でも今は、できるだけ学校に身を置き、子どもたちのそばで伴走したいと思っています。
「自分で選んだ人生を、生きていい」ーーそう思える社会を、次の世代に渡したい。
そのために、今の私には、養護教諭という立場が必要なのだと思っています。
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ちなみにうちの猫さまは、寝るときも起きるときも、すべて自分で決めて行動しています。自由で気ままな猫さまを見ていると、人間というのはなんとも感情的で複合的な生き物なのかと、ついため息がもれてしまいます。
